Kawai Dyeing Factory
SUMIDA,TOKYO大量生産より、少量の本物を。
江戸の“ものづくりDNA”を受け継ぐ。
株式会社 川合染工場
代表取締役社長 川合創記男
デザイナー 荒川祐美
03
江戸時代から伝わる手技が生きる町、東京都墨田区。昭和25年、先代の川合勇さんは繊維産業発祥の地である墨田区に川合染工場を創業します。現在、代表を務めるのは息子の川合創記男(そきお)さん。父の意志を継ぐように、墨田でのものづくり・染色技術の向上にこだわります。そんな川合さんの手により、数年前、江戸時代の染色技法である“東炊き染め(あずまだきぞめ)”が復活。そのきっかけとなったストーリーと、ものづくりにかける情熱をお話いただきました。
とある生地屋が東炊き染めを再現するため、全国の染工場を訪ねて廻りました。10数社、立て続けに断られ、ここがダメなら諦めようと最後に門戸を叩いた先が川合染工場だったそうです。「どうしてもいい風合いを出したいという熱意があった。これだけ一生懸命の人だったらなんとかなるかもしれない。直感でやってみようと決めました」と川合さん。東炊き染めは、小さな釜で生地を染色し、天日で干して巻き取る。機械化が難しく少量ずつしか行えないため、人の手も時間も、通常工程の3倍はかかります。そこまでして復活させる価値はどこにあるのでしょう。「肌で触れていただければ違いがよくわかります。東炊き染めで染めた生地は『何度も洗って芯の抜けたようなやわらかさ』があるんですね。江戸時代以前はこういったいい風合いの生地が結構あったんですよ。でも大量生産、大量消費の時代に、そういう手間のかかる染色技法は用いられなくなってしまった。もう一回立ちもどって、昔のいい風合いを再現してみたいと思いました」
新品の布を染め方によってやわらかくさせるという技は、表現の可能性を広げました。その人気は、一時期、受注をストップするほど。YARN HOMEの荒川は、東炊き染めで仕上げた生地を“アンティークファブリック”のようだと表現します。手に取った人は、何年も何年も受け継いできたような安心感が得られると言うのです。新しいのに古めかしい、唯一無二の生地の誕生です。
愚直で研究熱心。これが川合さんの印象です。物心ついたころから工場を継ぐことは当然だったと語る川合さんは、大学卒業後、三菱化成工業(株)〈現・三菱ケミカル株式会社〉に入社します。染色技術を学ぶため、ドイツのバイエル薬品に留学した経験も。染色は加工技術なのだと研究を繰り返し、新しい技術を生み出してきました。「いろんな加工の研究をしました。生地屋、染料屋、薬品会社から新しい情報を仕入れて、においをかぎ分けては試してみる。染色に技術をしっかりと入れ込みたかったんです。新しい技術は10回試して1回当たればいいほう。失敗の数のほうがずっと多いよ」と微笑みます。
積みあげた技を頼って、(イッセイミヤケ、コム・デ・ギャルソンといった)日本を代表するデザイナーズブランドからのオファーが絶えません。川合さんの腕が鳴るのは、開発した染色技術とブランド側の「こんな風合いを表現したい」というニーズをコネクトさせる瞬間。微妙なニュアンスを汲み取り、完成形をイメージする力に長けているからこそ為せる技です。川合さんにとって、染色は「工程」ではなく、「ものづくり」そのものなんですね。「流行をコピーするという考えでは売れるものは作れません。どんなものを作りたいか、どんな風合いを表現したいかという信念を持たないと。意志あるデザイナーと組んで本物を作る。そこにこだわりたいですね」
若い頃は、中国に工場を作るのが夢だったと話す川合さん。日本企業がほとんど進出を果たしていない30年前のことです。しかし「会社を経営するその意味を考えろ」という父の教えに、考えを改めます。「会社を経営するとは、第一に社会に貢献することです。日本人が経営して、日本人が働いて、日本で商売して、墨田という土地に役立つ仕事をするべきだ。それ以降、労働力を搾取するような海外進出や採用はしないと決めました」
川合染工場には、98歳まで現役を続けた職人さんがいる。スカイツリーの目と鼻の先、家々が入り組む間にある工場には、機械音を減少させるサイレンサーが導入されている。35年前より都市ガス(天然ガスLNG)が使用されている。 “墨田に息づく伝統を守りたい”そんな思いが感じとれます。荒川は「お客さん、働く人、地域の人に対する川合さんの温かな気づかいが、ものにも宿っている気がします。どうやってものづくりを行うべきか、その指針みたいなものを教わっていますね」と言葉に熱を込める。メイド・イン・ジャパンとは、日本人がものづくりの喜びに包まれて生み出したものを言うのではないか。信念を持って本物を追求する。江戸時代から脈々と受け継がれる“ものづくりのDNA”を胸に、ファブリックの可能性に挑みたいと思います。
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江戸時代から伝わる手技が生きる町、東京都墨田区。昭和25年、先代の川合勇さんは繊維産業発祥の地である墨田区に川合染工場を創業します。現在、代表を務めるのは息子の川合創記男(そきお)さん。父の意志を継ぐように、墨田でのものづくり・染色技術の向上にこだわります。そんな川合さんの手により、数年前、江戸時代の染色技法である“東炊き染め(あずまだきぞめ)”が復活。そのきっかけとなったストーリーと、ものづくりにかける情熱をお話いただきました。
とある生地屋が東炊き染めを再現するため、全国の染工場を訪ねて廻りました。10数社、立て続けに断られ、ここがダメなら諦めようと最後に門戸を叩いた先が川合染工場だったそうです。「どうしてもいい風合いを出したいという熱意があった。これだけ一生懸命の人だったらなんとかなるかもしれない。直感でやってみようと決めました」と川合さん。東炊き染めは、小さな釜で生地を染色し、天日で干して巻き取る。機械化が難しく少量ずつしか行えないため、人の手も時間も、通常工程の3倍はかかります。そこまでして復活させる価値はどこにあるのでしょう。「肌で触れていただければ違いがよくわかります。東炊き染めで染めた生地は『何度も洗って芯の抜けたようなやわらかさ』があるんですね。江戸時代以前はこういったいい風合いの生地が結構あったんですよ。でも大量生産、大量消費の時代に、そういう手間のかかる染色技法は用いられなくなってしまった。もう一回立ちもどって、昔のいい風合いを再現してみたいと思いました」
HOMEの荒川は、東炊き染めで仕上げた生地を“アンティークファブリック”のようだと表現します。手に取った人は、何年も何年も受け継いできたような安心感が得られると言うのです。新しいのに古めかしい、唯一無二の生地の誕生です。
愚直で研究熱心。これが川合さんの印象です。物心ついたころから工場を継ぐことは当然だったと語る川合さんは、大学卒業後、三菱化成工業(株)〈現・三菱ケミカル株式会社〉に入社します。染色技術を学ぶため、ドイツのバイエル薬品に留学した経験も。染色は加工技術なのだと研究を繰り返し、新しい技術を生み出してきました。「いろんな加工の研究をしました。生地屋、染料屋、薬品会社から新しい情報を仕入れて、においをかぎ分けては試してみる。染色に技術をしっかりと入れ込みたかったんです。新しい技術は10回試して1回当たればいいほう。失敗の数のほうがずっと多いよ」と微笑みます。
積みあげた技を頼って、(イッセイミヤケ、コム・デ・ギャルソンといった)日本を代表するデザイナーズブランドからのオファーが絶えません。川合さんの腕が鳴るのは、開発した染色技術とブランド側の「こんな風合いを表現したい」というニーズをコネクトさせる瞬間。微妙なニュアンスを汲み取り、完成形をイメージする力に長けているからこそ為せる技です。川合さんにとって、染色は「工程」ではなく、「ものづくり」そのものなんですね。「流行をコピーするという考えでは売れるものは作れません。どんなものを作りたいか、どんな風合いを表現したいかという信念を持たないと。意志あるデザイナーと組んで本物を作る。そこにこだわりたいですね」
若い頃は、中国に工場を作るのが夢だったと話す川合さん。日本企業がほとんど進出を果たしていない30年前のことです。しかし「会社を経営するその意味を考えろ」という父の教えに、考えを改めます。「会社を経営するとは、第一に社会に貢献することです。日本人が経営して、日本人が働いて、日本で商売して、墨田という土地に役立つ仕事をするべきだ。それ以降、労働力を搾取するような海外進出や採用はしないと決めました」
川合染工場には、98歳まで現役を続けた職人さんがいる。スカイツリーの目と鼻の先、家々が入り組む間にある工場には、機械音を減少させるサイレンサーが導入されている。35年前より都市ガス(天然ガスLNG)が使用されている。 “墨田に息づく伝統を守りたい”そんな思いが感じとれます。荒川は「お客さん、働く人、地域の人に対する川合さんの温かな気づかいが、ものにも宿っている気がします。どうやってものづくりを行うべきか、その指針みたいなものを教わっていますね」と言葉に熱を込める。メイド・イン・ジャパンとは、日本人がものづくりの喜びに包まれて生み出したものを言うのではないか。信念を持って本物を追求する。江戸時代から脈々と受け継がれる“ものづくりのDNA”を胸に、ファブリックの可能性に挑みたいと思います。